「板倉鼎 須美子展」於千葉市美術館

 板倉鼎はほとんど知られていない画家である。現在の埼玉県吉川市に生まれ、医者の父が千葉県松戸市で開業したために幼いころから千葉県松戸市で暮らし、今の県立千葉高で美術教師の堀江正章先生(この人も知られていないが、すぐれた画家)に学ぶ。ちなみに私は千葉高の卒業生であり、堀江先生のことは同期に紹介してことがあるが、板倉鼎のことは知らなかった。
 その後、東京美術学校に学び、在学中に帝展への入選を果たす。在学中の1923年に関東大震災が起きているが、このことについては解説にも何も触れていない。
 そして1926年にパリに新婚の妻須美子とともにハワイ経由で向かう。須美子はロシア文学者の娘であったが、後に鼎の影響によりパリで油彩画を画く。
 言うまでも無いが、当時、パリに留学した者は佐伯も藤田も実家が裕福であった。

 当時のパリはエコール・ド・パリと総称されているが、世界から多士済々の画家が集まっていた。日本人画家も藤田嗣治をはじめ120名程度いたようだ。遊ぶ日本人も多い中、岡鹿之助と親しみ、アカデミー・ランソンでロジェ・ビシエールに学ぶ。そして写実的なスタイルを脱して、簡潔な形と鮮烈な色彩による詩的な構成に新境地を拓き、1927年にはサロン・ドートンヌに初入選する。
 須美子は絵を日本ではまったく習っていなかったが、パリで鼎の影響で描くようになる。作品はホノルルの風物を純心な筆致で描き、驚くことにサロン・ドートンヌで初入選する。鼎よりも当時の評価は高かったとも言われている。

 鼎は1929年(昭和4)に28歳で客死する。ふたりの娘たちも結核だと思うが、亡くなり、須美子も日本に帰国後に26歳で亡くなるという悲劇に見舞われる。
 鼎の遺作は鼎の妹(画学校時代にモデルになっている)が大切に保管し、近年に遺族が松戸市や当美術館に寄贈されている。今回の展示作品にも個人蔵と記されているものはわずかであり、当時は広く知られておらず、作品も売れていなかったことがわかる。

 鼎の静物画は、テーブルにクロスを敷き、そこに花瓶、あるいは果物籠のようなもに花や果物を入れ、また金魚鉢に水をたたえ、そこに金魚を泳がせ、背景は屋外の空や風景画を画くというものが特徴的である。
 色の配色に加え、それぞれの材質の質感を描き分けるなど、なかなかに印象的な作風である。
 また妻の須美子をモデルにして、赤い洋服を着せ、腰から上半身、顔も目鼻をくっきりと描くような作品も特色があり、記憶に残るものである。
 この赤い色が記憶に残るが、夭折した村山槐多のガランス、関根正二のバーミリオンは広く知られているが、板倉鼎の赤(和の色における猩々緋ではと私は思うが、絵具の名前があるのかもしれない)も、広く知って欲しいと思う。いずれも夭折した画家であり、何かあるのかなとも感じる(夭折した画家は他にも多くおり、全てが赤色系に思いがあるわけではない)。

 画題は、これらの作品が大半を占めている。
 この2つの得意テーマを複合した「休む赤衣の女」は、ベッドに赤い服を着て須美子が横たわり、服やベッドの敷布などの質感を描き、ベッド脇に金魚鉢(ガラス、水、中に泳ぐ金魚のそれぞれの質感を描き分ける)、もう一方に花瓶(陶器の質感)に花(アネモネなど)、そして窓の外には海と空の風景を描いたものである。

 須美子の作品は技術的には上手ではないが、ハワイの思い出を「ベル・ホノルル」と統一した画題で画き、通し番号を付けた作品が大半である。メルヘンチックで、アンリ・ルソーを彷彿させるような作品である。だからパリで評価されたのではなかろうか。

 千葉市美術館は東京ステーションギャラリーと同様に、良い企画展を開催する美術館である。
 ちなみに、石井光楓展も開催していた。次の予定があり、じっくりとは観ていないが、日本画と洋画が交じったようなネオ・オリエンタリズムとして、パリ(板倉鼎と同時代)で評価されたとのことであり、晩年は郷里の千葉県の長生高校で教えたとのことだ。

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