「上杉鷹山の師 細井平洲」 童門冬二 著

上杉鷹山は立派な藩主だと思う。その鷹山の師が儒者の細井平洲である。評伝的小説だと思うから、内容の全てが真実ではないと思うが、細井平洲は両国橋の袂で、大衆に講釈をして人気があったことを知る。難しい学問の内容を大衆にもわかりやすく説き、実践に資するように話した内容もさることながら話術も上手だったのだろう。

藁科松伯という米沢藩の医師が、その平洲に目を留めて、上杉鷹山の師に招請したわけである。当時の上杉家では藩の重臣に逆らうような人物は江戸藩邸に飛ばされていたようで、その江戸藩邸の藩士も平洲の学問に私淑する。

上杉鷹山は秋月藩主の次男として生まれ、上杉家に養子に入った人物である。秋月藩の長男も優れた人物だったようで、鷹山は学問的には兄の影響も受けていたとある。
上杉家の先代の藩主の娘で身体的に発育が遅れた姫と結婚するが、この姫に対して、折り紙を作ってやったり、人形を作ってやり、その人形の顔を姫が描いたら、それを褒め、姫に慕われてたという逸話を紹介している。

上杉家は先代の時代までに、積もり積もった赤字(借金)に喘いでいたそうで、庶民が新しく買った鉄器に「上杉」と書いて貼っておけば「金気」が抜けると冗談を言われるほどだったようだ。

細井平洲の話した内容も、文中でわかりやすく紹介されていて興味深い。変わった内容ではなく儒学を、より実践の中で生かすような内容であり、心構えである。
鷹山は財政再建の為に徹底した倹約をするが、人材の育成の為に学校は造ると方針を立案し、平洲にその運営方針を諮る。興譲館がそれである。鷹山が新設したのだが、上杉家にあった学校を再建したとして、上杉家の伝統を大事にする。

平洲は上杉家以外にも宇和島藩や和歌山藩などにも講義に行くことがあったが、上杉藩での活躍が知られてからは故郷の尾張藩に招聘される。

米沢には都合3度ほど出向くが、その折り折りの藩主とのエピソードも紹介されている。心温まる師弟の関係が書かれている。

鷹山の改革に反対する国元の家老たちとの戦い(七家騒動)は、改革勢力に反対する守旧勢力の戦いとして描かれている。現代の会社などでも生じる騒動である。この時の上杉家先代(隠居)の態度は立派であり、養子の鷹山を迷いなく支持する。
また、当初は改革派だった竹股当綱が増長して失脚したことも興味深い。

鷹山の改革に、昔の直江兼続の施策をオーバーラップさせて紹介している。当時は上杉藩中では石田三成と組んで徳川に逆らったことで、今の上杉家の苦況の原因を作ったと思われていたようだが、鷹山は直江の施策(一口で言えば殖産事業)を高く評価して、実践している。

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