「司馬遼太郎が描かなかった幕末」一坂太郎 著
この本は、史実から司馬遼太郎の小説における虚構を吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬の3人について指摘している本である。相手は小説なのに、歴史家が、その虚構を批判するという大人げないことをするのは、司馬遼太郎の小説が史実と思われやすい点を危惧している為である。確かに虚構は、歴史上の人物に失礼になる面もある。また、それだけ司馬遼太郎の影響力が強いということである。
たとえば、高杉晋作について著者が指摘した点は以下の通りである。
1.高杉は16歳頃には江戸で勉強していた。愚童ではなかった。
2.司馬の小説では高杉が佐久間象山を悪く言うが、史料では絶賛している。
3.横井小楠からも影響を受けているが、司馬の小説には出てこない。
4.晋作は当初、欧州の視察を希望したが、それには同藩の杉が選ばれ、上海行きとなる。ここで外国に支配されることの惨めさを見る。またアームストロング砲に驚く。
5.イギリス公使館の焼き討ち、幕府が腰抜けみたいに書かれているが、幕府は天皇から、この地を外国に貸すことを禁止するように言われていたから、渡りに舟だったのではないか。
6.刑死した松陰の遺体の改葬は、幕府の政策の変更を受けて長州藩が行う。改葬の途中で将軍しかわたれない上野の三枚橋を強引に渡ったという史実は当時の史料にはない。
7.高杉が京都で、将軍を「いよう、征夷大将軍」とやじったという史料もない。司馬遼太郎は将軍の従士の中に悔しがって江戸に手紙を送った者が多いと、さも史実のように書いている。
8.奇兵隊は四民平等というものではなく、藩は一見して身分がすぐにわかるように、袖印などに差をつけている。
9.義商:白石正一郎は山陽道きっての回船業の大問屋ではなく、比較的小規模な荷受け問屋。アンテナをたてて商機を探っていたから情報通。白石は白石の利益で便宜を図っていた。日記が残っていたので伝説が膨らむ。一方、逆に埋もれていて、司馬も触れていないのが、晋作の下関のスポンサー入江和作(酢の醸造で奈良屋)。
10.奇兵隊総督の赤根武人は高杉の武力による俗論派打倒の方針と合わずに処刑されるが、その後を継いで明治の元勲になった山県有朋も、その復権を認めず。都合の悪い史実は消される。
11.功山寺は高杉が蜂起として有名になるが、功山寺の場所は支藩の地で、実際は宗藩の下関での挙兵だろう。
12.長州藩の派閥抗争における俗論派は抹殺されている。当時は俗論派のように幕府に恭順謝罪をしなければ、大敗を喫する状況。しかも当時の征長軍は天皇の命であり、それに従う方が勤王。
13.高杉晋作の有名な辞世もその時に造られたものではない。また字句もその通りかは確かでない。
坂本龍馬
1.竜馬脱藩時に力になってくれた姉のお栄は、離縁もしておらず、脱藩の十数年前に逝去している。
2.亀山社中ができた時に龍馬がそこにいたという史実はない。
3.龍馬の一喝で桂小五郎や西郷隆盛が同盟するのではなく、それぞれの背後の事情で同盟。
4.龍馬の妻のおりょうの聞き書きがあるが、それは使われていない。記憶違いもあるが、龍馬がだらしなく見える点で使われないのだろう。
5.いろは丸と紀州の船がぶつかって、いろは丸が沈み、交渉した時に万国公法を訳したとあるが、その前に訳されていた。また、万国公法には、海上交通の法規などない。
6.船中八策は使われている言葉に当時の言葉には考えられないものも多く、偽作ではないかとも言われている。
吉田松陰
1.松陰は熱烈な天皇崇拝者。だから戦前は忠君愛国のシンボルとして取り上げられていた。司馬遼太郎はこのことは簡単に書いて、純情な人として書く。革命家松陰を強調。
2.松下村塾は身分、年齢隔てなく入塾を認めとしているが、実際は武士(陪臣も含む)が中心。士分53名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他藩人(医師)1名、不明8名。
3.松陰は老中間部詮房を殺そうと考えていたテロリストでもあり、松下村塾でも、えこひいきが強いところがあった。
小説の目的は娯楽でもあり、また自分なりの人生の指針にもなりうるわけであり、史実とは違うが、司馬遼太郎の小説は広く読まれている(=広く、その中身が知られている)ということで、歴史家としては戸惑うことも多いだろうなと思う。
私は趣味の刀剣に関する司馬遼太郎の記述で、「ちょっと違うよな」というのは経験しているし、仕方無いのかもしれないが、盲信はダメだと思う。
たとえば、高杉晋作について著者が指摘した点は以下の通りである。
1.高杉は16歳頃には江戸で勉強していた。愚童ではなかった。
2.司馬の小説では高杉が佐久間象山を悪く言うが、史料では絶賛している。
3.横井小楠からも影響を受けているが、司馬の小説には出てこない。
4.晋作は当初、欧州の視察を希望したが、それには同藩の杉が選ばれ、上海行きとなる。ここで外国に支配されることの惨めさを見る。またアームストロング砲に驚く。
5.イギリス公使館の焼き討ち、幕府が腰抜けみたいに書かれているが、幕府は天皇から、この地を外国に貸すことを禁止するように言われていたから、渡りに舟だったのではないか。
6.刑死した松陰の遺体の改葬は、幕府の政策の変更を受けて長州藩が行う。改葬の途中で将軍しかわたれない上野の三枚橋を強引に渡ったという史実は当時の史料にはない。
7.高杉が京都で、将軍を「いよう、征夷大将軍」とやじったという史料もない。司馬遼太郎は将軍の従士の中に悔しがって江戸に手紙を送った者が多いと、さも史実のように書いている。
8.奇兵隊は四民平等というものではなく、藩は一見して身分がすぐにわかるように、袖印などに差をつけている。
9.義商:白石正一郎は山陽道きっての回船業の大問屋ではなく、比較的小規模な荷受け問屋。アンテナをたてて商機を探っていたから情報通。白石は白石の利益で便宜を図っていた。日記が残っていたので伝説が膨らむ。一方、逆に埋もれていて、司馬も触れていないのが、晋作の下関のスポンサー入江和作(酢の醸造で奈良屋)。
10.奇兵隊総督の赤根武人は高杉の武力による俗論派打倒の方針と合わずに処刑されるが、その後を継いで明治の元勲になった山県有朋も、その復権を認めず。都合の悪い史実は消される。
11.功山寺は高杉が蜂起として有名になるが、功山寺の場所は支藩の地で、実際は宗藩の下関での挙兵だろう。
12.長州藩の派閥抗争における俗論派は抹殺されている。当時は俗論派のように幕府に恭順謝罪をしなければ、大敗を喫する状況。しかも当時の征長軍は天皇の命であり、それに従う方が勤王。
13.高杉晋作の有名な辞世もその時に造られたものではない。また字句もその通りかは確かでない。
坂本龍馬
1.竜馬脱藩時に力になってくれた姉のお栄は、離縁もしておらず、脱藩の十数年前に逝去している。
2.亀山社中ができた時に龍馬がそこにいたという史実はない。
3.龍馬の一喝で桂小五郎や西郷隆盛が同盟するのではなく、それぞれの背後の事情で同盟。
4.龍馬の妻のおりょうの聞き書きがあるが、それは使われていない。記憶違いもあるが、龍馬がだらしなく見える点で使われないのだろう。
5.いろは丸と紀州の船がぶつかって、いろは丸が沈み、交渉した時に万国公法を訳したとあるが、その前に訳されていた。また、万国公法には、海上交通の法規などない。
6.船中八策は使われている言葉に当時の言葉には考えられないものも多く、偽作ではないかとも言われている。
吉田松陰
1.松陰は熱烈な天皇崇拝者。だから戦前は忠君愛国のシンボルとして取り上げられていた。司馬遼太郎はこのことは簡単に書いて、純情な人として書く。革命家松陰を強調。
2.松下村塾は身分、年齢隔てなく入塾を認めとしているが、実際は武士(陪臣も含む)が中心。士分53名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他藩人(医師)1名、不明8名。
3.松陰は老中間部詮房を殺そうと考えていたテロリストでもあり、松下村塾でも、えこひいきが強いところがあった。
小説の目的は娯楽でもあり、また自分なりの人生の指針にもなりうるわけであり、史実とは違うが、司馬遼太郎の小説は広く読まれている(=広く、その中身が知られている)ということで、歴史家としては戸惑うことも多いだろうなと思う。
私は趣味の刀剣に関する司馬遼太郎の記述で、「ちょっと違うよな」というのは経験しているし、仕方無いのかもしれないが、盲信はダメだと思う。
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